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湯 桧 曽 川

平野 正(遠州屋薬局)

赤城、榛名で紅葉を楽しんだ翌週、一の倉沢へ行った事がある。

土合駅から地上にでるには数百段の階段を登らなければならない。土合から歩いてマチガ沢・一の倉沢へ行く。途中公園に遭難した人の霊を慰める今東光の詩の碑があった。

垂直に立つ岩壁の恐い感じと、その前景の紅葉がすばらしかった。道の傍の岩肌にはあちらこちらに、無数の鎮魂のレリーフが打ち込んである。岩壁の神々しさを感じ、転落した登山家の魂の安らかなるを念じた。



幽の沢を通り越すと、「新潟に至る江戸時代の道」とあった。
幕末に長岡藩の家老、河合継之介が横浜でガトリング砲二門(西部劇に出てくるハンドルを廻して連射する機関銃)を買い長岡の戦いで威力を発揮した。
ガトリング砲はこの道を通り長岡に運ばれたに違いない。

河合継之介は「武装中立」を唱えたが維新政府に佐幕派と決め付けられ、「長岡の戦い」となった。
「長岡の戦い」は戊辰戦争のなかの戦闘で、官軍の大将は山形有朋である。
ガトリング砲の破壊力で一度は占領された長岡城から山形有朋が褌一丁で我先に、命からがら馬で逃げるほどの戦い振りを見せた。

継之介は被弾し、敗血症で戦死をしてしまう。
替って家老となったのは従兄弟で文人派の小林虎三郎だった。

しかし、その後長岡藩は軍備に金を使いすぎ、さらに敗戦の為、減俸され、藩の実収は40%程になってしまった。
この度の小泉首相の就任時の有名になった演説、米百俵の話はこの時のことで、長岡藩の窮状を見かねた支藩の三根山藩が百俵の米を送ったことに始まる。

米の分配を迫る藩士らを小林虎三郎は命がけで説得し、米を売り得た金で学校を建てる。
教養を広め良い人材を育て上げれば国は栄え、兵は強くなり・・・」と教育立国を目指し、その後、長岡からは山本五十六堀口大学その他各界の指導的立場の人を輩出する・・・・・そんな史実を思い出させてくれる道だ。


一の倉沢から急斜面を結構な時間下り湯桧曽川に出た。
以前、浅瀬を何度か渡り、また急斜面を登り、湯桧曽橋に着いた時のことを思い出した。
あんな静かな、浅い清流が暴れるなんて、自然は恐いものだ。
自然とは、恐れと慎ましさを持って付き合わなくてはならぬ。 

参考資料 人材育成を唱えた「米百俵」
平野 正(遠州屋薬局)..........
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