| 私と江戸川 | |||
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| 執筆者 中臺弘志様の許可を得て以下の写真・資料を挿入添付し、編集させていただきました カラー写真は平成20年1月16日に撮影したものです。本町自治会 稲葉八朗 写真/資料提供:自然通信社 国土交通省 関東地方整備局 江戸川河川事務所 本町自治会 水上から見る市川〜松戸 |
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| はしがき | |||
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江戸川・坂川を語る前に松戸市漁業協同組合についてお話します。 松戸市漁業協同組合は江戸川、坂川によって誕生した組合であり、その経緯は次の通りです。 昭和初期、とくに娯楽のない時代、昨今とは異なり、ゴルフなどは庶民とは無縁の、上流社会の娯楽スポーツでした。 当時の多くの町民が手軽な楽しみとしたのは、4月から5月にかけて利根川上流より流下する雪代水により増水した江戸川からの水で、坂川が川幅一杯あふれんばかりになると、産卵のため遡上する鯉を投網で捕獲する遊びでした。 当時の町の有力者、後の川井卯之助松戸市長、松戸名産茄子のよいち漬島村俊社長、松戸印刷大塚社長、秋本糸店秋本社長等、そして後述の会を立ち上げた川井市長の弟、川井孝助氏等でした。 はじめは「同好の仲間」として発足した集まりでしたが、昭和7年、満州事変勃発後の戦時協力団体として「松戸漁業会(食料)」としてあらたに設立し、物資欠乏のなかで、綱やその補修糸や魚の捕獲用具の配給を受ける公認団体になりました。 当時今の古ケ崎から新松戸にかけては水田を含む湿地帯で水路が多く、そこで捕れる鮒は「古ケ崎鮒」として有名になり、農家の人々はさまざまな方法で漁業をおこない、食料の補足や生活費に充当していました。そして必要物資が配給制になった頃には配給を受けるため、おおくの農家の人達は漁業会員になったのです。
戦後は米軍の命令により解散する事になりましたが、解散総会において敗戦から立ち上がり、これからの経済復興に伴う「清浄な水の確保の問題に対処するための団体」が必要と考え、私や東京新聞販売社主渡辺氏、待山七五郎氏が中心となり、漁業に関係する人々と共に昭和24年11月18日発足したのが現在の「松戸市漁業協同組合」です。
さて、江戸川の話に戻りますが、昭和初期の川は水も清例で町の茶人はわざわざ川に水を求めてきたほどでした。 そのころは今の国道6号線が(水戸街道)わが家の裏にあり(角町三差路北側から下横町の江戸川に向かう道路 現存)、江戸川にかかる葛飾橋(明治44年9月に完成した 149m×8mの木橋)を渡り河川敷をぬけ、金町方面に向かっていました。それ以前は橋のあった場所のすぐ下に渡船(1718年頃 松戸宿営「大向いの渡し」)があり、今の角町三差路分岐点から糸伝商店横の江戸川に向かう 3.6mの道を通り、川に出て渡船で対岸にわたり、金町村関所(河川敷にありました。その痕跡の記憶があります)を経て、江戸へ向かったとの事です。 参考 松戸市HP 写真で見る松戸の歴史 (明治時代) 当時の堤防は赤圦方面から下横町(水運の松戸寄航場、梨本太兵衛氏宅)までは新堤防ができておりましたが、 500m下流に新しく架橋(葛飾橋鉄橋)の建設が始まり、完成も間近な橋への道路や堤防の建設工事が開始され、トロッコによる土砂運搬がおこなわれており、工事の休みの時は子供達がそれで遊んでいました。 参考 松戸市HP 写真で見る松戸の歴史 (昭和初期) 葛飾橋鉄橋が完成したのは昭和2年で、国道6号も角町三差路から小山で堤防上道路に付け替えられ、橋をわたると堤防道路を経て、金町葛西神社手前から右折して金町駅に向かいました。 新しくできた三差路からの6号線道路には未だ軒並みもなく、商店も数えるほどで、中台釣具店、渡辺竹屋、布施金魚店、永戸餅菓子店、小鳥屋、森田金物店や和田酒店、米井氏宅などがあっただけでした。 参考 昭和5年の角町・下横町絵図 松井天山描く 本町自治会 江戸川ではカーブに直面して浸食される松戸側河岸の防護の為、赤圦水門から常磐線鉄橋上流 100m位までの間には松丸太の組立沈礁と粗朶と砕石の組み合わせの護岸が建設されていました。 また流蓄された川砂も、経済復興によるコンクリート資材の需要拡大に伴う浚渫採取により消滅し、それによる流水面積の拡幅により川の流速は目に見えて緩和し、ついには潮の干満が大きく水面を左右するようになったのです。特に金町の東京都水道局の取水塔付近より始まる坂川岩盤による浅瀬部分は、まだ船外機が大衆化しない時代で船の航行には、砂運搬船はもちろん当時は農家の天然肥料として引っ張りだこだった下肥を都心から千葉埼玉に水上輸送する蒸気船で曳航される運搬船列などにとっては大変な難所でした。 この浅瀬は松戸と市川の境あたりまでつづきましたが、この区域はよき漁場でもあったのです。
流山地区は浅瀬も多く水運にはかなり支障がありました。しかし、松戸地区に入ると比較的深場が多く、松戸から矢切かけては江戸川における最良の漁場だったのです。 戦後新堤防が完成しましたが、昭和22年のカスリーン台風による大洪水では、墟防の 1.5mほどまでに水が迫り、だれもが、どこかが決壊するのは時間の問題と思った時に急に減水し姶めたが、この原因は利根川の大利根町の堤防の決壊でした。 水は奔馬の勢いで埼玉東部を席巻して南下し、金町桜土手に押し寄せ、西は綾瀬町も呑み込み、常磐線は冠水の為不通になりました。 この時、果てしなく南下する水を米軍による松戸対岸小向の墳防爆破切壊により、濁流が物凄い勢いで江戸川に流入した事が脳裏に過ぎります。 これが切っ掛けで現在の堤防が当店をはじめ、多くの住宅移転によって完成し、現在では堤防決壊の心配は完全になくなった、と言っていいと思われます。
さて江戸川の魚の話に戻ります。 かつて最盛期にはアユが1トンも取れた江戸川の清流ででしたが、戦後昭和30年代の経済復興期に入ると、古ケ崎から新松戸に広がる耕地整理による宅地造成、そして工場誘致、住宅建設や急激な工業誘致に伴う工場の汚染排水や人口増加による家庭排水の増加によって、坂川は瞬く間にドブの排水路になり、赤圦水門を経て江戸川に注がれる水の松戸側は「真っ黒な流れ」になってしまし、川岸は悪臭に満ちた、泥濘におおわれ、堤防に上がると悪臭が感じられるという状況となってしまいました。勿論坂川は言わずもがなです。 江戸川に関する会議があると必ず金町浄水場(東京都)委員から、坂川からの汚染水の話題が出て、その水を飲まされているという猛烈な抗議をうけました。松戸の委員の間では坂川は禁句でした。当時の水道当局の懸命なる浄化活動によって、水道水は透明は保っておりましたが、殺菌用のカルキ臭は強烈でした。 私はこうした事態を大いに危惧しました。 『これからの日本を担う子供達がその発育期に欠く事が出来ない、しかも人体自身が80%余の水分でなるその水がこんな状況で家庭に供給され子供達の成長に資して、此れからの再建日本を担う健全なる身体を完成できるか!』・・・。 ある人々は家庭では浄水器を、そして葛飾区の主婦達は江戸川の浄化運動を始め、また、市川学園の古賀園長は「江戸川を守る会」を創立しました。 この会は間もなく沿川自治体の共同事業となり、関係行政機関、団体、そして市民の協力のもと「清流江戸川」を取り戻す大きな力となったのです。 また、松戸市民の有志からも汚染された坂川、江戸川に対する危幌の声が起こりました。もちろん行政も日夜浄化について腐心しておりましたが、経済復興が優先された当時の日本の状況では、ある意味ではやむを得なかった事とも考えられます。とにかくなによりも、経済優先だったのです。 もちろん江戸川の漁業も、かつてはあれほど海から遡上した稚あゆも、まったく姿も見せなくなりましたが、皮肉なことには坂川から本川に流入する汚濁水が極めて栄養豊富の為か、鯉は大量に水門から葛飾橋にかけて集合し、連日釣り人が押し寄せ、よく釣れ、なかには30〜60aの鯉を一人で 15・6匹も釣果を上げる人もいましたが、その鯉は臭気が強く、とても食用にならず放魚したのでますます釣れる現象を呈しました。 また赤圦水門の吐き出しには 45〜6aの連魚が物凄い群れをなし集合し、排水中のヘドロを捕食し、6〜7月にかけての正午頃に一斉に水上高く乱舞する姿は壮観でした。 ![]()
平成五年頃、大島江戸川工事事務所長のあと赴任された小川鶴蔵所長が組合事務所にみえられ、開口一番に『組合長、この江戸川の水をどう思いますか?』と言われました。 初めて江戸川行政の長が見えられ、問われたこの言葉は私にとってはまことに有難いお言葉であり、その後、江戸川の水に執着する原点となったのです。 そしていろいろと懇談し、最後は「お互い協力して、江戸川の水を四国の四万十川までは届かなくとも、それを目指して頑張りましょう」という決意を固めたのです。そして試行錯誤の後、完成したのが日本で誇るべき河川浄化事業、流水保全水路 『ふれあい松戸川』の誕生です。 平成4年からはじまり、完成には約8年余の歳月を要しました。 その間江戸川に関係する行政機関、関係団体による協議会も結成され、その結果を江戸川工事事務所がよく取り入れて現在の状況になりましたが、特に都市周辺の一級河川の河川敷が人間の利便の具に使用され、河川敷の自然が破壊されている事を考慮し、この松戸の河川敷は、「人工であるが自然環境を育て、自然再生を!」と私と自然通信社・田中氏が強く提唱し、最初の設計では浄化した水を地中の鉄管により栗山まで導水する計画でありましたが、「開口した河川にして、水を太陽に浴すべき」と進言したものが取り入れられて「自然保護区域」となったのです。今は多種にわたる野鳥、昆虫が訪れる様になりましたが、10年〜20年先には、首都圏近くにあるこの自然環境は、その真の価値を示すに違いない、と確信しております。 今いろいろな懇談会でこの利用法を模索しておりますが、これに対しては慎重に取りくむ必要あります。自然は一度破壊されると原状に復するのは膨大な時間と費用を要するからです。秘境と称される場所も、ひとたび人為が加わり、無責任な人害が発生すれが、一気にその価値を失ってしまいます。 そのような経緯の中で江戸川の水は驚くほど浄化されました。 その水が原水の水道水も良質に改良されましたが、水道消費者には関心が薄く、「最近の水道水の味は?」と聞いてもあまり反響がありませんが、それは空気と同じで、自然の恩恵にドップリ浸かっているので、それが当たり前のようになってしまい、関心がなくなっているのでは。と思います。 江戸川は一定の水位を保持しないと束京都の取水に支障を来すため、江戸川放水路の河口堰は閉鎖されておりますが(台風などの大雨の時は開けて、東京湾に水を流します)、水が動かないため夏季3日以上続くと水色が変色してくることも事実です。 以上、江戸川について、いろいろな面からお話しましたが、江戸川からの取水は今後ますます増えるでしょうが、江戸川の水質保全の面から、無制限の取水には私は断固反対です。現在中近東で実用化されている「海水の淡水化」を研究し、生産単価の低廉をはかり、飲料水以外の使用に充当するなどして、自然水の無制限採取も規制する必要があるのでは・・・とも考えております。
次に『ふれあい松戸川』について述べましょう。 前述の通りの経過で工事が開始されましたが、この大工事の概要を述べましょう。 江戸川への汚染水の元凶であった坂川の水を浄化して江戸川に流すために、古ケ崎水門から坂川汚水を取り入れ、河川敷地下に設置された浄化施設・『ばっき付礫間接触酸化法』という浄化装置を50m×3基敷設して、これによる浄化された水を当初はそのまま江戸川に出す予定でしたが、微臭がするため、水道用取水口下流に流すための水路が必要になりました。 川幅をそのままの状態で、河川敷の少ない江戸川東岸(松戸側)に河川敷を造るため河川敷を東京都側に 100m移動させるために、対岸の土をとり松戸側を埋め立てる河川敷造成事業が開始されました。 これは当組合にとっては死活の問題でした。 江戸川最大の漁場であった魚の生息場所、河岸、河底が全部消滅してしまうからです。今後新漁場を構築するには施設と長期年月がかかると思われますが、この事業を完成させるためにはある程度の犠牲もやむを得ず、完成後には新しい漁場造成を工事事務所に確約を得て了承しました。
さて着工に関する設計段階で、当初は河川敷に鉄管を柳原樋門口まで引き、江戸川に戻す予定でしたが、私の「開口河川にし、水を太陽に浴させる事(前述)」が受け入れられ「ふれあい松戸川」となり、この方式によって着々進行してきましたが、あらたに坂川に問題が出てまいりました。 それは北千葉流域下水道の完成による家庭排水の減少に伴う「坂川の水量の激減」です。 坂川を川として保持するためには一定の水量が必要です。 坂川の不足を補うには『ふれあい松戸川』の水を一部環流して坂川に流してもらう事が必要であり、その為に小山で松戸川から取水する現況になりましたが、小山ポンプ場から坂川に戻し、上下に分流しているのが現在の姿です。 (『ふれあい松戸川』については、児童の水遊びの出来るような安全な浅場所をつくり、とかく危険視する川に対する認識の啓蒙を教育関係に提唱する計画もありました。) 以上の施策により、江戸川の水質は驚異的に改良され、BODが23から2以下になりました。勿論これは江戸川河川事務所を中核とする地域諸機関が開始した「江戸川ルネッサンス事業」による「坂川の清流化事業」との相乗効果である事は言うまでもないでしょう。また「江戸川を守る会」の江戸川全川に及ぶ活動も、大いなる貢献となっていることも勿論です。 現在「世界各国の大都市周辺で、この江戸川のような清流を眺望できることはない」との事を、たまたま見えたドイツの方より言われました。私たちが空気のように日常何気なく飲み、使用する水を得ることが、他国ではいかに大変なことであるかは、身近な東南アジアに旅行しても痛切に感じられ、我々は素晴らしい水に恵まれているかに感謝し、水の大切さを身に体し、この自然の恵みに対し水の節約、清浄に努めるべくあらためて決意し、これからも江戸川の水を守るために組合と共に努力することを念頭に筆をおきます。 |
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| 私と江戸川 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| sakagawa | |||||
| 坂川雑感 | |||||
| 市内をゆっくり流れる坂川、よく見ると水が川上に向かって流れています。それだから「逆川」なんだと納得する方もいるのも、ごもっともなことです。 そもそも坂川は高低差が少ない地域を流れています。 北松戸付近から矢切下通りの高低差は 1.5m位、そして松戸本町から小山にかけては1〜2m程度の高低差であり、江戸川とは 2〜2.5m位の差です。 ![]()
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坂川が出来たのは江戸時代上期でした。 東側に台地があり、また山林を有した松戸はかなりのの湧水がありました。そして、その湧水と東側台地からの降雨の流入が湛水に拍車をかけ、地域住民はいつも洪水の被害に直面したからです。 従って江戸後期には出水のたびに坂川流域部落間の紛争が繰り返されましたが、その最大原因が「坂川の排水能力の過小」にある、ということで「六間川(坂川)」の浚渫、「新六間川(新坂川)」の新規掘削等が実施され(1813)、赤圦樋門を通して江戸川に放出しましたが、予期した成果は得られませんでした。 その後も江戸川の洪水や長雨による出水等で、度々の水害に見舞われましたが、特に新田開拓の田畑を守る農民のリーダーの苦慮は大変なものであり、協議万端の結果、坂川、新坂川系統の水を松戸中心部より南下させて、栗山地区より江戸川に放出する為の工事を天保6年(1835)に開始しました。 なお、坂川の名称は文化10年(1813)の新六間川が完成された後に使用されたようです。戦後赤圦樋門の水路の川底の岩盤を掘り下げましたら、排水はかなり容易になったとのことです。 松戸から栗山への現在の坂川の建設には反対運動がおこり、特に小山から矢切地区においては、ついには殺傷事件までが起こった事がありました。このような歴史の基に現在の坂川があるのです。 有名な眼鏡橋は小山、矢切地区を水害から守る水門で、ここには出水時、水を調整する門扉が設置され、常時「圦番」と称するこの門扉の管理に当たる人が、近くに住んでおりました。 かつて、この坂川は夏季には子供の水遊び場所になりました。 また眼鏡橋の上流カーブ地点には野菜の洗い場があり、季節になると多くの農家の人達がネギ、大根、カブなどを洗っていたものです。対岸には山崎氏経営の市場があり、戦前は毎日賑わっておりました。 戦後は江戸川の項で述べたように、経済復興による上流の工業団地の建設ラッシュに伴う無規制の工場排水による汚染、加えて人口急増よる家庭汚水の垂れ流し等で、かつての坂川は見る影もなくドブ化して、悪臭を放ち、真っ黒な水が流れとなってしまったのです。 市民も行政も関係団体も危機感を抱き、小川江戸川工事事務所長の江戸川浄化の第一歩『流水保全水路』の建設に呼応し、「清流ルネッサンス事業」を開始したのです。 そして今、坂川の一部であるが小山から赤圦近くまでが昔に近い環境を再現しつつある現在ですが、自然は一端破壊されると、いかに人智を尽くしても、元に復活させるには百年かかるといわれています。 自然を人間の利便に利用するときは十分な配慮のもと、人にとっても自然にとっても共に、最良となる方策を選択する事が重要である事を、あらためて記して終了します。 尚この記述に当たりましては、(国)江戸川河川事務所所蔵諸資料を参考にし、て、私の80余年の所感を述べさせていただきましたが、時代考証不足等による誤描がありましたら容赦願います。 |
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| 私と江戸川 | |||||
坂川 赤圦への分岐点 きつね橋手前 眼鏡橋 眼鏡橋方面から松戸神社を望む |
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| 参考資料 | |||||
| 大人が読んでも面白い小誌です。国土交通省もなかなかやるもんです。 国土交通省 関東地方整備局 江戸川河川事務所発行 (江戸川)てくてくガイド ![]() 企画・編集 自然通信社 清流ルネッサンス21江戸川・坂川地域協議会発行 江戸川・坂川のいきもの ウォッチング2 ![]() |
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| photo 水上から見る市川〜松戸 私と江戸川 |
Google Earth 市川 江戸川左と江戸川放水路分岐点![]() 市川 江戸川左 江戸川放水路分岐点 |
0![]() 江戸川放水路へ |
![]() 江戸川へ・・・そして東京湾への船の水門 |
| 1 市川国府台 和洋女子大 ![]() 市川国府台 和洋女子大 |
| 2 市川 里見公園下 ![]() 市川 里見公園下 |
| 3 柳原水門 ![]() 柳原水門 |
| 4 矢切の渡し |
![]() 矢切の渡し 5 矢切の渡し 船着場 ![]() 矢切の渡し 船着場 |
| 6 矢切の渡 柴又船着場 ![]() |
| 矢切の渡 柴又船着場 |
| 7 ゴルフ場 ![]() ゴルフ場 |
| 7 陸地から見たゴルフ場 ![]() |
| 7-82 金町給水塔 ![]() |
| 8 JR 葛飾橋 ![]() JR 葛飾橋 |
| 8-1 陸地でのいも煮会 (h19年11月3日 第25回) ![]() |
9![]() |
| 10 ふれあい松戸川遊歩道 ![]() ふれあい松戸川遊歩道 |
| 11 松戸 ![]() 松戸 古ヶ崎排水機 |
12 ![]() 古ヶ崎給水塔 |
| 13 三郷有料橋 カヌー大会会場 ![]() 私と江戸川 |