| 南海ホークス 杉浦 忠氏 逝く | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 文芸春秋 『諸君!』 2002年1月号 |
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| 大学を出てプロ野球に入った者は大勢いるが、「なるほど、こいつは大学出とるわ」と観衆を納得させたのは、南海ホークスの杉浦忠(66歳)をおいては他に一人もいない。 その人が旅先の札幌で、心筋拘束により急逝した。 昭和34年、巨人相手の日本シリーズで四連投四連勝。 杉浦が眼鏡を秋の日にキラッと光らせながらサブマリンで投げるとき、スタンドは今みたいに「ドンドコドン、かっとばせ!」なんて無礼な叫びを上げなかった。外野席まで静まり返り、手に汗を握って杉浦の球の行方を見守った。 英雄が英雄として正しく認められる時代が、かつて日本にあった。 野球の醍醐味を知る人々がいた。 杉浦は、ただ剛球を投げていたのではない。考えながら投げていた。見ていて、それがよく分った。セカンド鶴岡一人は肝心な場面でよく三振したが、ショート木塚、サード陰山は天下一品の内野だった。(※)
杉浦の年間38勝、稲尾和久の42勝。 金田正一もほとんど連日投げていた。 日本のプロ野球はこの先何年続くだろう。 だた再び彼らに匹敵する英雄は出てくるのか? 五回だけ抑えて後はセットアッパーとストッパーに助けてもらい、10勝すればエース。 笑わせるな。 |
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| 文芸春秋 『諸君!』 2002年1月号 紳士と淑女 本町自治会編集 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
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鉄腕稲尾 逝く |
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| 『諸君!』平成20年1月号 紳士と淑女・・・・・ | |||
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| 鉄腕をもってしても、死神の痩せ腕を振り払うことはできないのだ。こんなに早く稲尾和久の訃を聞くとは思わなかった。 まだ七十だ、日本人の死ぬトシではなかった。 、 稲尾を語るのに生涯勝敗数や防御率、シーズン42勝のタイ記録な、乾いた数字を並べるのは意味がない。彼を語ろうと思えば、ただ1958年(昭和33)のことを物語ればよい。 それは戦後日本、いま流行中の「三十年代」が全員の力を合わせて書いた物語であり、ホーマーにも比すべき一編の叙事詩だからである。 三原修監督の西鉄ライオンズは、日本シリーズで巨人に三連放した。あと一つでシリーズを失い、巨人の天下になる。 当時の巨人は、日本最強の「体制」だった。ナベツネは、まだウダツが上がらなかっただろうが、読売はさておき、巨人は常勝だった。人気に敏感な芸能人は必ず「プロ野球は?」 「やっぱり巨人です」と答えた。 そういう空気の中で体制に反発する世の拗ね者どもは、こぞって熱烈にライオンズを応援した。だが、中西太、大下弘、豊田泰光とスラッガーを並べたのに、なぜかその年は点が取れない。打倒巨人の悲願は裏切られるかに見えた。 第四戦からは、稲尾が四連投した。 第五戦は稲尾がサヨナラ本塁打を放った。彼が塁を一周して歓呼するベンチに戻ってくると、熱狂的なファンの男がベンチ上に正座して、その稲尾を拝んだ。 「神様、仏様、稲尾様」は、そこから始まったそうである。 ライオンズは四運勝し、ウソのような大逆転で優勝を成しとげた。 のちに本人が明かしているが、最終戦の終盤にキャッチャーがタイムを取ってマウンドに駆け寄り、稲尾と配球を打ち合わせた。その捕手が、黙って下を指す。見ると稲尾の手からこぼれあボールが、足元に転がっていた。そ知らぬブリして拾ったが、連投また連投で握力がなくなっていたのだ。それでも投げ統け、彼は勝った。 別府の漁師の子だった。 別府緑丘高校で投げてはいたが、試合のない日は父親を手伝って漁に出る。辛抱強く櫓を漕ぐことによって自然に鍛えられた肩と足腰だった。 朝鮮戦争が休戦してまだ5年、当時の九州には、進駐軍が大勢いた。稲尾はサイの愛称で、彼らの間に圧倒的な人気があった。日本の総理大臣さえ載らない「タイム」誌にサイは写真入りで載り、世界に知られた。 管理野球クソくらえ。 男一匹がマウンドに立って次から次に出てくるスター打者をKOする。野武士が打って走って投げた時代は、稲尾の急逝と共に神話になった。 |
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伝説がまたひとつ・・・・・ 野茂英雄 平成20年(2008)7月17日 野茂引退 (Yahoo!ニュース) |
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