| 平潟遊郭 |
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| 左□は平潟旅篭 右は下横町旅篭 松戸宿絵図 ![]() 街中と田圃、坂川(掘)で隔離された平潟遊郭 平潟遊郭地図(松戸町案内図より) 菊地健三画 1977. ![]() |
* | 江戸時代の水戸街道の宿場町・松戸には本陣辺り(現三丁目)および下横町に、多くの旅篭がありました。 一方、平潟には江戸川の平潟河岸、納屋河岸があり、材木商、また水運の中継点となっていたことからか、飯盛女という女中を抱えた旅篭屋があり、盛んな時には三十三軒も軒を並べて栄えていました。 当時の役人から、なぜ宿はずれの場所に設けたのか、なぜ宿内に移さないのかといわれていたそうですが、平潟の旅篭方は承知せず、これがのちに平潟遊郭になったようです。 江戸の吉原は市中の良風美俗を乱さぬようにと、市外を外れた浅草寺裏手の辺鄙な場所にありました。 吉原の環境は、戦後高田浩吉の歌(「大江戸出世小唄」)にもうたわれています。 ♪ 猪牙(ちょき船)でいそがせ 大川上れば スチャラカチャン スチャラカチャン はやも山谷掘 吉原土手だよ スチャラカチャン 可愛いあの娘が おまちかね ハ〜 ドースル ドースル スチャラかチャン ・・・・・・・ ♪ 納屋川岸側と樋野口側に立つ大門で区分けされた平潟遊郭は、松戸街中と田圃(吉原田圃)、坂川(山谷掘)で隔離されており、吉原の環境に似ています。 こうしたことから、のちに松戸近郊でも有名な遊郭街になっていったのかもしれません。 関東大震災の後、平潟遊郭の中には贅を尽くした木造建築も建てられましたが、残念ながら1994年、完全に壊され、現在は跡形もありません。 |
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